読み切り小説

「少年時代」

Copyright: CASTER, 1998 - 2006


 

■はじめに■

この小説は、かつて私が所属していたサークルの同人誌に掲載する作品として、1998年前半に執筆したものです。400字詰の原稿用紙で37枚分の、実質的な「オリジナル小説でのデビュー作」となるものです。

登場人物やストーリーが私の創作である以外の、舞台となる街などについて、具体的な地名などは出てきませんが、実在するところを描写しています。ただし、1998年当時に取材した事実に基づいた描写のため、現在とは著しく異なる部分がありますが、訂正せずに掲載しています。

なお、初出の同人誌の販売等は行っておりませんので、ご了承下さい。

 

2002年9月6日
作者








 朝の巨大なターミナル駅の地下コンコースは、いつもと寸分も変わらぬ光景を見せていた。


 ラッシュアワー独特のテンポで動き続ける、何百…いや、何千という人波の中で、紺色の制服と、同じ色の半ズボンを身に着けた一人の小学生が、そのテンポから思いきりずれたノロノロとしたスピードで、プラットホームへと続く階段を上っていた。


「…うわっ!」


 あとほんの数段で地上へと出るところで、その小学生…智(さとる)は、いきなり足を滑らせた。


 ランドセルを背負っているために両手が空いていたのが幸いして、何とか身体ごとその場に倒れることだけは避けられた。しかし、階段の途中で両手を突いて四つんばいになっている姿は、はた目にはカッコよく見られたものでもないし、実際、後から次々と、半ば駆け足で階段を上ってくる大人たちは、ちらっと智に一瞥を与えるだけで、声をかけることもなく次々と地上のプラットホームの向こうへと消えていった。


「ふぅ…」

 そのままいつまでも四つんばいになっていても仕方がない。軽く両手をはたいて立ち上がった智は、あきらめたようなため息をつき、二、三度肩で呼吸をすると、再びひとりで階段を上り始めた。


 朝の上りプラットホームは、相変わらずの大混雑だった。ひっきりなしに入ってくる、オレンジと緑のツートンカラーに車体を塗られた電車は、ホームいっぱいにあふれかえる人々を確実に詰め込んでいるはずなのに、地下の奥深くから湧き出るような人々の群れは、いつまでたっても一向に減る気配を見せなかった。


(学校、いやだな…行きたくないな)

 プラットホームの端を、人ごみを避けるように歩きながら、智はふと一つ隣の下りホームに目を向けた。そこには、ちょうど特急列車が入線しているところだった。銀色の車体と、そのまん中に一直線に引かれたオレンジとこげ茶のラインが、ホームに差し込む朝日を反射して、智の目に眩しく映った。しかし、それも一瞬の内で、何かを考えようとした智の目の前に、満員の乗客で膨れあがった上り普通電車が、轟音とともに勢いよく割り込んできた。


 グリーン車の乗車口にも、既に長い列ができていた。最後尾に並んだ智は、乗車口の外で、電車が到着する前から次々とグリーン券の改札を済ませている駅員の動作を、所在なげに眺めていた。


 まだわずか小学五年生ではあっても、それなりに裕福な家庭に育った智は、わざわざ一時間かけて都心の私立小学校へ通い、さらに、通学のために両親からグリーン定期券を買い与えられていた。しかしそれが、毎朝の殺人的なラッシュを両親が心配してのことなのか、それとも単なるおとなの見栄であるのかまでは、智の知るところではなかった。もっとも、今の智の頭では、後者の方に決まっていると思うことが強かった。


 あと二人で自分の番になったところで、智は、制服のポケットに手を入れた。


(あれ?)


 いつも制服の右ポケットに入っているはずの定期入れが、なかった。ポケットの中の空気をかき混ぜるように、智の右手が何度かその中を探った。しかし、ポケットには、何も入ってはいなかった。


(どうしたんだろう…さっき転びそうになったときに、落としちゃったのかな…)


 何度探ってみたところで、空のポケットの中から探し物が出てくるはずもなかった。智は、ポケットをまさぐりながら、自分が半ば泣き顔になっているのがわかった。


(あぁ、どうしよう…どこで落としちゃったんだろう…改札口を入って、それから…)


 智は、今この場所に来るまでの行動を思い返していた。確かに、改札口を入ったということは、それまでは定期入れを持っていたはずだ。しかし、そこから先の記憶が、はっきりしない。なぜ階段の途中で転びそうになったのか、どうやってここまで歩いてきたのか、智には、それらを思い出すことができなかった。


「…さとる、君?」


 突然、背後から自分の名前を呼びかけられて、智はビクッと身体を震わせた。


「きみ、智君…だろ?」


「は、はい」


 短く返事をして後ろを振り向いた智の目の先には、思いもしない人物の姿があった。


「これ、君のだろ?さっき、向こうの階段で拾ったんだ」


 詰襟の学生服に身を包んだひとりの少年が、笑いながら智の黒い定期入れを差し出していた。


「あ、あの…えっと…」


「どうしたの?ほら、もう君の番だよ。これがないと、電車に乗れないんじゃない?」


「えっ?…あ、どうもありがとう」


 気がつくと、駅員が智のすぐそばで、何かを言いたげにして立っていた。智は、当たり前のお礼しかできない自分に歯がゆさを感じながらも、軽くおじぎをして目の前の少年から定期入れを受け取り、駅員に向かってそっと差し出した。


「はい、ありがとう。気をつけてね。」


 自分の父親と同じくらいの年格好に見える駅員は、ニッコリと笑い、乗車口へと導くように智の背中にかかったランドセルををそっと押した。


 頭の中が熱くなっていくのを感じながら、智は、フラフラとした足取りで、車内へと足を踏み入れた。











 朝の上りグリーン車は、もうすでに智たちが乗り込む駅の遙か前から満席だった。しかしそれでも、身動きもとれないほどに混雑している普通車よりは、決して快適とは言えないまでも、遙かにましではあった。


「さっきは、どうもありがとう」


 狭いデッキの隅で、乗降ドアを横手にし、壁にランドセルを押しつぶすように寄りかかって身体の揺れを押さえながら、智はぺこり、と頭を下げた。反対側の隅では、両手で通学カバンを下げた少年が、やはり智と同じようにデッキの壁に寄りかかって、さっきから黙って智のことを見つめていた。


「ううん。でも、定期券をなくさずにすんで、よかったね」


「はい…」


 智は、さっきからずっとうつむいたままだった。とても、顔を上げて、まっすぐ相手の顔を見て話をできる状態ではなかった。自分でも、うつむいたままの顔がほのかに熱く、赤くなっているのがわかった。


 今、智の目の前にいるひとりの少年…年格好からして、高校生なのは間違いないと智は確信している。しかも、智と同じようにグリーン車を利用しているということは、きっと、どこかのお金持ちの子供なのに違いない…彼は、智にとって初めて『憧れ』という感情を抱かせた人物だった。理知的な顔立ち、優しそうな瞳、スラリと伸びた背…黒い詰襟の学生服が、よく似合っていた。


 智が五年生に進級してからの毎朝、同じ電車に乗り合わせ、同じ場所に立っているその少年のことを、智は、まだ十歳そこそこの人生経験では、何とも表現しようもない想いでいつも見つめていた。


 彼は、兄弟のいない智にとって、夢の中の「お兄ちゃん」だった。電車に乗ってから、二つ目の駅で降りるまで、わずか十七分の間でしかない時間、智は、「お兄ちゃん」を見つめながら、ひとりで兄弟の会話を交わしていた。そして、少年を見つめているだけで、幼い子供から少年期へと成長しつつある智の身体が、自分のもうひとつの想いを代弁するように、熱く昂ぶってくるのを感じていた。それが、ひょんなことで彼の方から声を掛けられるとは、智には思いもよらないできごとで、話したいことのひとつも口に出せずに、うつむくことが精一杯だった。


「どうしたの?熱でもあるの…顔が赤いみたいだけど」


「え…、い、いえ、なんでも、ありません…」


「そう?でも、今日はなんだか変だよ、智君」


「…今日、は…?」


 智は、ハッとして、ほのかに赤く色づいた顔を上げた。少年が、心配そうに智の顔をのぞき込むようにしているのが見えた。

「どうして?」


「フフフ…だって、智君、毎朝ずっと電車の中で僕の方を見てるじゃないか」


 少年は、目を細めて笑い、少し長めに伸ばした髪を指先でとかしながら言った。


「あ…あの、ご、ごめんなさい」


 自分の行動が少年に見透かされていることに気づき、智は、前にも増してさらに顔を真っ赤に染めて、うつむいた。


「なぜ、あやまるの?」


 少年は、寄りかかっていた背中を智の目の高にさまで折り曲げた。


「だって…お兄ちゃん、ぜんぜん知らない人なんだし…」


「お兄ちゃん?」


 智は、しまった、と言う表情で、慌てて両手で口を押さえた。つい、頭の中でいつも呼びかけている言葉で、少年のことを呼んでしまった。


「ハハハ…別にいいよ、お兄ちゃんって呼んでも。だって、智君から見たら、僕は立派な『お兄ちゃん』だしね…。それに、僕は、少しだけ君のこと、知ってるから…」


「僕のこと、知ってるって…」


 少年の言葉に驚いて、智は目を見開いた。少年は、智の何を知っているのだろう。しかし、今の智の頭には、そのことを考えるだけの余裕はなかったし、もちろん、少年にそれを問いただすこともできなかった。


「うん、少しだけね…」


 少年は、背中を戻して、窓の外を見た。それにつられて、智も同じようにドアのガラス窓の向こうを眺めた。


(あっ、あれは…)


 電車は、広い川にかかる鉄橋の上を渡っていた。鉄橋のすぐ下にある土手から、ひとりの少年がじっとこちらの方、鉄橋の上を疾走する電車を見ていた。智は、窓の向こうに見える自分と同じ年頃の少年が、自分に向かって何かを語りかけているように感じて、思わずドアの窓ガラスに手を触れて、流れていく少年の姿を必死に追いかけていた。











「ねぇ、智君?」


 電車から降りた少年は、智の横に並んでプラットホームを歩きながら、まっすぐ前を見たまま呼びかけた。


「…はい」


 智も、まっすぐ前を見たまま答えた。


 いつもの朝なら、同じ駅で電車を降りる智は、少年に気づかれないように人ごみにまぎれ、そっと後ろの方を歩くことしかできなかった。しかし、今日は少年の方から智が降りるのを待って、一緒に並んで歩いてくれた。それが、智にはとても嬉しいことでもあり、また、少しだけ不安でもあった。


「智君、今日、学校休んじゃいなよ」


「えっ?」


 思いもよらないことを言われて、智は立ち止まって少年の横顔を見上げた。同時に少年も立ち止まり、顔を横に向けて智の目を見つめた。智の目に写る少年の瞳は真剣で、智には、勝手に学校を休んでしまおうなどということを、少年がふざけて言っているようには、見えなかった。


「智君、いつもここから会社の人の車で小学校まで送ってもらうんだろ?僕が、うまく言ってあげるからさ、だから、一日くらいなら休んじゃいなよ、行きたくもない学校になんか、ね。僕も、今日一日君につきあうからさ」


 智には、少年の言っていることがよく理解できていなかった。さらに、智がここから車で学校へと送ってもらっていること、そして、今の智が少しだけ登校拒否に陥りそうな気持ちになっているのかを、なぜこの少年が知っているのか、智の頭の中で疑問が湧き上がっていた。


「どうして?どうして知ってるの?僕が…」


「さっき言っただろう?僕は、少しだけでも君のこと知ってるって」


再び歩き出した智が、少年に問いかけようとするのを、少年は早口にしゃべってそれを遮った。


(お兄ちゃんがいるんだったら、いいかな…でも…)


 智は、少なくとも智にとっては見ず知らずの人間に、単純に従うことが良いことではないということくらいの分別はついていた。しかし、少なからず自分のことを知っているこの少年に、自分のことをもっと知ってもらいたい、もっと自分から話したいという気持ちの方が、強くなっていることを感じた。そして、智自身から、この少年に自分の思いをすべて話してしまいたいという感情が、いつしか智の心の中を支配し始めていることも感じ始めていた。


「あ、いたいた。あの女の人に、送ってもらうんだろ?」


 改札を抜け、客待ちのタクシーと自家用車が混然と並ぶロータリーに出たところで、少年が言った。少年の目は、ロータリーの端に駐車した銀色の外国車のそばで、鮮やかな色のスーツを着こなし、片方の手首につけた高級そうな腕時計を見ているひとりの女性に向かっていた。


「え?…うん、そう、あの人…響子さん…お父さんの会社の、秘書さんなんだ。でも…」


 智は、少し歩く速度を速めながら答えた。響子という名の秘書の女性は、腕時計から目を離すと、歩いてくる智たちに気づいて、微笑みながら会釈をした。


「そう、君のお父さんの会社の、秘書…そして、僕の姉さんさ」


「えぇっ?」


 今朝、智は何度少年に驚かされたことだろう。これ以上の驚きはないといった表情をあらわにして、智は立ち止まった。しかし、今度は少年は立ち止まらず、自分が「姉」と呼んだ人物に向かって歩きながら、片手をあげた。


「おはようございます、智さん…あら、今日はあなたも一緒だったの?」


「お、おはようございます。響子さん…」


 微笑みを絶やさずに智に近づいてきた響子に向かって、智は、いつもの朝とは違うぎこちないしぐさで、あいさつを返した。


「おはよう、姉さん…そう、今日は僕も一緒なんだ。だって今日、智君は、急にめまいを起こして、電車の中で倒れたからね。だから…」


「お、お兄ちゃ…、あっ」


 少年は、智が思いもかけないことを話し始めた。智の頭の中が、またカッと熱くなり、ぐるぐると回転し始めた。確かに、めまいがしそうなのは、事実なのかもしれない。頭の芯が、割れるように痛かった。


「えっ…?そういえば、智さん、少し顔が赤いようだけど…」


 響子は、心配そうに智の顔をのぞき込んだ。智は、本当のことを悟られまいとするように、響子の視線を避けて、顔をそむけた。


 智は、響子が自分の父の経営する会社の有能な秘書であり、父の仕事をサポートする重要な人物であることを理解していた。だから、毎朝彼女の出勤前に、智を学校まで送っていくことを任せているのだろうと思っていた。しかし、人並み以上の容姿から垣間見える大人の女性としての雰囲気が、まだ子供の智にも、それが父の仕事上の部下である以上の関係を想像させた。だから、毎朝の車中でも、響子とは必要以上の会話を交わすこともなかった。さらに、目の前にいる少年とこの有能な秘書が、姉弟であると言うことは、智に別の意味でも衝撃を与えていた。


「智君、どうかしたの?まだ、頭が痛い?」


「う、ううん…。多分、大丈夫だと、思います…」


 少年が、智の肩に手を置いて訊ねた。少年の暖かな手の感触を感じた智は、思わず身体を硬直させて、少年の言葉を否定した。


「ま、そういうわけさ、姉さん。だから、今日は智君は学校を欠席するんだ。僕が、彼の家まで送って行くから、僕も今日は…」


 少年は、最後の言葉を濁し、姉に向かって目配せをした。


「そう…そういうことね。わかったわ。それじゃ、学校とお父さんの方には私から…あとで、お母さんの方は、国際電話で…。それじゃ、後は頼んだわね」


 響子は、少年の目配せで全てを理解したのか、誰に向かってでもなくそれだけを言うと、後ろを振り向いて車のドアを開けた。


「響子さん…あ、あの…」


 智は、何かを問いかけようと、小さな声で響子の名を呼んだ。しかし、次につなげる言葉が見つからず、名前を呼びかけただけで、また下を向いてしまった。


 運転席に腰かけた響子は、ウィンドウを開け、智に向かっていつもと同じ微笑みを投げかけると、一言だけ答えて、朝の街へと向かって車を発進させた。


「智さん、ご心配なく。私の弟ですから…。そう、それと、私、決して今の智さんが思っているような女性では、ありませんことよ」


 響子の言葉の持つ意味に気づいて、智は何かを言おうとして顔を上げた。しかし、すでに智の視線の先には響子の姿はなく、彼女の運転する銀色の外国車は、ロータリーを抜け、運良く渋滞の途切れた広い国道を、スピードを上げて走り始めていた。










「智君」


 響子の運転する車が去っていく方向を見ながら立ちすくんでいる智の背後から、少年が声をかけた。


「えっ、は、はい…」


「帰ろうか」


「帰る?」


 振り向いた智は、訝しそうな顔で少年を見上げた。智の頭の中では、さまざまな疑問が浮かんでは、消えていった。なぜ、たとえ相手が自分の憧れの人であるにしろ、智にとっては名前すら知らない少年が、智と一緒にここにいるのか。少年は、なぜ智が学校へ行くのを止めたのか。なぜ自分は少年の言うことにしたがっているのか、そして、自分は、これからどうなるのか…。しかし、痛みの治まらない智の頭は、その疑問に、ひとつとして答えを見つけることはできなかった。


「うん、話があるんだ、君に…電車の中だけで、事足りるかな」


「あの…」


 智が呼びかけようとするのを無視して、踵を返した少年は、つい今しがた二人が歩いてきた方角へと戻り始めた。智は、黙って小走りに少年の後を追った。


 再び改札口を入った少年は、これから改札を出ようとする人波を巧みに避けながら、終始無言で地下道を歩き、プラットホームへと続く階段を上った。智は、少年の姿を見失うまいとするように、ひたすら少年の背中を追いかけた。


 下りホームは、閑散としていた。売店の女性店員が手持ち無沙汰に商品の並べ替えをしているのを横目に見ながら、智と少年は、乗車口に向かって歩いていた。


 グリーン車の乗車口には、智たち二人のほかには誰もいなかった。ガラガラの電車が、ずっと黙り込んだまま乗車口に並んで立っている二人を押しのけるような強い風を、一瞬だけ巻き起こして、止まった。


「先に、乗りなよ…」


 少年は、一歩身を引いて、智のランドセルを押した。


人ひとり分の幅しかない狭い乗車口から、智の身体が転がるように車内へと入っていった。


 智の視界から、少年の姿が、消えた。ただ、少年が背後に回っただけなのに、智には、自分ひとりが取り残されたように思えて、デッキのまん中に立ちすくみ、全身を震わせた。


「お兄ちゃん…どこ…ぼくを、ひとりにしないで…怖い…僕、どこにも行きたくない…」

 毎朝の上り電車で感じるものとは違う車内の雰囲気も、智の恐怖感をより強いものにしたのかもしれない。電車のモーター音だけが低く静かに響きわたるデッキの中で、智はわなわなと身体中を震わせていた。制服の半ズボンから伸びた両脚が、智の身体を支えきれないと言っているように、小刻みに震えていた。

 プラットホームから聞こえてくる発車ベルの音が止むと同時に、智の背後で、乗降ドアが勢いよく閉まった。その音が、智には、自分一人だけをその場に置き去りにするための合図に聞こえた。智は、身体を震わせたまま下を向いて、のどの奥から絞り出すような声で、悲鳴を上げた。


「いや…いやぁ…」


 智の意思を無視するように、ガタン、と電車が動き出した瞬間、突然、智の片腕が何者かによって掴まれた。智が、自分の腕を掴んだ主を確認する暇も与えられないうちに、智の身体は、正面から何者かに抱きすくめられた。


「智君!」

「お兄ちゃん?…お兄ちゃん!…う、うぅ…」


 智は、少年の身体に顔を埋めて、泣いた。身体の震えは、まだ、止まらなかった。しかし、かすかに感じる少年のやわらかな匂いが、智の心の奥底から湧き上がる恐怖心を、少しずつ消し去っていくように感じた。


 少年は、片手で抱きしめていた智の身体をそっと離すと、肩をかかえるようにして、デッキから車内へと続くドアを開けた。


 車内には、片手に余るほどの乗客しか乗っていなかった。立っているのがやっとだというようにフラフラと車内を歩いていた智は、車内の中間あたりでランドセルを下ろし、窓際の座席に倒れこむようにして腰掛け、目を閉じた。


 窓から差し込む太陽の光が、目を閉じていても眩しくあたってきた。智の隣、通路側の座席に黙って腰掛けた少年が、身体を伸ばしてブラインドを半分ほど下ろした。


「智君…智君?」


「えっ?」


 目を閉じていた智の横で、少年が何度も智の名前を呼んでいた。いつの間にか、車掌が車内検札に来ていた。薄目を開けた智は、制服のポケットの中から定期入れを出して、少年の身体越しに、車掌に向かって定期券を見せた。


「はい、毎度ありがとう…大丈夫?顔色が悪いようですが?」


「は、はい…ご、ごめんなさい」


 智は、訝しげに智の顔を見ている車掌の視線を避けながら頭を下げた。なぜ謝ってしまったのかは、智にもわからなかった。しかし、今の智には、「ごめんなさい」という他には、ひとつも言葉が見つからなかった。

「そうですか…気をつけてね」


 車掌は、心配そうな顔で、智を気遣うように声をかけると、車内の後方へ向かって歩き去った。智は、大きくため息をつくと、制服のポケットに定期入れを戻し、背もたれに身体を押し付けるようにして、再び目を閉じた。


 特に、眠ろうとしているわけではなかった。ただ、現実の世界に向かって目を開けているのが怖かった。頭の中がまたグルグルと回転し始め、身体が震えてくるのを感じた。


 目を閉じたまま身体を震わせている智の耳に、少年の、ひとり言にも似たつぶやきが聞こえた。


「智君…僕と、同じなんだね…。ひとりぼっち、なんだね…」











 電車を降りてから、どうやって家に帰ってきたのか、智はまったく思い出せなかった。ただ、駅のバスターミナルへと向かう地下街も、智が学校帰りに利用する路線バスも、時間が外れていたせいで思いのほか空いていたという感覚だけが、智の頭の中に残っていた。


 電車の中で少年がつぶやいてからは、ずっと二人とも無言だった。ただ、智は、少年が智の家までついてきてくれたことが、ひとつもおかしいことではないと思っていた。ひとりになりたくは、なかった。


 智は、だだっ広い自宅のリビングルームで、ランドセルを背負ったままカーペットの上にしりもちをつくように座り、焦点の定まらない視線を、宙に泳がせていた。その横に立った少年は、何も言わずに智のことを見つめていた。


「智君?」


 手に持っていたカバンをカーペットに置いて、少年はひざを曲げ、智を覗きこむように顔を寄せた。智の頬に、少年の吐く息がかかった。ビクっと身体を震わせた智が、少年の方を向いた。


「あ、お兄ちゃん…。ごめんなさい。今、ジュースか何か、持ってくるね…。今日から何日かは、家の中、誰もいないから…。多分、お手伝いさんも…」


 智は、ランドセルを肩から下ろした。立ちあがろうとして腰を浮かせた智の肩が、少年の両手で押し戻された。


「智君…」


 カーペットの上にひざまずいた少年が、智の肩に手を置いたまま、名前を呼んだ。智は、少年の顔を見た。智の心を突き刺してしまうような少年のまなざしが、痛かった。しかし、智は目をそらさなかった。少年の瞳の中に、智の心が吸い込まれていくように思えて、智は、思わず涙を流した。


「お兄ちゃん…ごめんなさい、ごめんなさい…」


「…」


「僕、だめなんだ…わかんないんだ。みんな、みんな嫌いになっちゃったんだ。お父さんも、お母さんも、みんな…」


 智は、両目からとめどなく流れる涙をぬぐうこともせず、少年の目をまっすぐに見たまま、話しつづけた。


「僕、誰のために生きているのか、わかんないんだ。何をしていいのか、わかんないんだ。だって、毎日毎日、遠くの学校まで通って、お友達だって、遠くから通ってるし、放課後だって、遊べない。中学にあがるためのテストもあるから、いっつも、勉強勉強…このまま、おとなになったら、僕、どうなっちゃうの?ねぇ、教えてよ、お兄ちゃん…」


 少年は、黙ったまま智の肩から両手を離した。


「お父さんは、仕事ばっかり。お母さんも、仕事してるんだ。ブティックとかいうところの、社長さん…今日から、外国へ行っちゃった。僕のことなんか、かまってくれないよ、ちっとも。この間ね、近所に住んでる僕と同じくらいの歳の子が、日曜日に家族でどこかに出かけるところを見たの。すごく、うらやましかった。でも、悲しかった。だって、僕、そんなこと経験したこと、ないんだもの。誰も、僕のことなんか、思ってくれてないんだ。勉強だけできればいいと、思ってるんだ。だから、いつも僕は、ひとりぼっち。それに、それに…」


 智は、わなわなと唇を震わせた。言ってはいけないことを口にしようとしているのが、自分でもわかった。しかし、智の唇は、もう、自分でも制御できないほどのスピードで、言葉を発しつづけていた。


「響子さんだって、普段は笑って僕に話しかけてくれるけど、心の中ではどう思ってるのか、わかんないんだ。僕、この間、別の秘書さんから聞いちゃった。お父さんと、響子さん…あ、あ…ご、ごめんなさい…ごめんなさい…お兄ちゃん…」


 智は、たとえ衝動的であっても、とんでもないことを口にしてしまったことを激しく後悔して、目を大きく見開き、右手を唇に当て、少年に向かって謝り続けた。少年は、目を閉じ、黙ってかぶりを振った。


「だ、だって、み、みんな嫌いなんだ。僕のことなんか、どうでもいいやって、思ってるんだ。お父さんも、お母さんも、とりあえず僕が、お父さんの言う通りにしていればいいと思ってるんだ。そうすれば、いい学校を卒業して、お父さんの後を継げるもんね。でも、やだよ。僕、お父さんも、お母さんも、嫌いだもん。お父さんの会社の人も、お母さんのお店の人も、学校の先生も、友達も…みんな、みんな、大嫌いなんだっ!」


 智は、一気に話し終えると、少年の胸に抱きついた。少年の制服の胸をつかんで、智は声をあげて泣き叫んだ。


「うっ…うっ…僕、これからどうなっちゃうの?どうしたらいいの?…教えてよ…」


「智君…僕のことは、嫌い?」


 少年の胸に顔を埋めて泣き叫ぶ智の髪をそっと撫でながら、少年が聞いた。


「お兄ちゃん…わかんない…だって、だって…」


「智君、今までは、そうだったとしても、今は、ひとりぼっちじゃないよ。だって、ここに僕がいるんだもの。僕は、智君のこと、好きだよ。それに、姉さんだって、智君が思ってるような人じゃ、ないよ。僕が、保証するよ。姉さんは、いつも智君のこと心配してるよ。今、僕たちは別々に住んでるんだけど、いつも姉さんと電話で話す時は、智君のこと、話題になるんだ。本当だよ。姉さんったら、智君のことを本当の弟みたいなつもりでしゃべるんだ。君が、とても素敵な子供だってね。だから、そんなに心配しないで、ね…」


「お兄ちゃん…ごめんなさい…ほんとに、ごめんなさい…」


 少年の胸から顔を離した智は、その場にうずくまるようにして頭を下げた。


「いいんだよ、智君。僕も、君くらいの頃は、やっぱり、そんなことを思ってた…僕も、家から遠く離れた学校に通ってた。今も、そうだけどね。僕の親父も、会社を経営してるんだ。だから、見栄もあるんだろうね。子供をいい学校に行かせて、それから…。だから、家に帰っても近くに友達なんかいるわけないし、いつも一人きりなんだなって、思ってた。でもね、みんなのことを嫌いだなんて言っちゃいけないよ。みんな、智君のこと好きなんだよ。ご両親だって、仕事ばかりじゃないはずさ。だって、誰のために働いてるの?智君のためじゃない…違う?」


 智は、ハッとした表情で頭を上げ、少年を見た。確かに、「仕事、仕事」とばかりに見える智の両親ではあっても、家に帰ってくれば、必ず智に声をかけてくれる。食事だって、智の好物を優先して作ってくれる。時間があれば、智の学校の宿題を一緒になって考えてくれる…。数は少なくとも、両親と一緒の出来事が、智の頭を駆け巡っていた。


「お兄ちゃん…」


「ね、やっぱり、そうだろ?まだ、智君は十歳なんだもの。そんなに自分をいじめちゃ、いけないよ。みんな、智君のこと好きなんだよ。もちろん、僕もね」


 智の目の前で、少年が笑った。


「ありがとう、お兄ちゃん…」

 智の目からこぼれ落ちる涙は、いつの間にか、悲しみから嬉しさへと変わっていた。


「でも、でも…僕、もうひとつ、お兄ちゃんにあやまらないといけない…」


 少年の笑顔につられて一瞬笑いかけた智が、再び目を伏せた。


「どうしたの?」


「あ、あのね…僕、近頃、変なんだ」


「変?」


 少年が小首をかしげた。しかし、少年の顔には、智の言わんとしていることをすでに理解しているような表情も垣間見えた。


「僕、時々からだの中が熱くなるんだ。あの…うまくいえないけど…」


 智は、制服の半ズボンの中心に手のひらを当てた。


「それで?」


「それで…いつも、その時、頭の中で、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが、僕のこと…今も、ちょっと変なんだ。少し、ほっとしたら、熱くなってきて…こんなこと、誰にも、お父さんにも、お母さんにも言えなくて…」


 智は、頬を真っ赤に染めて立ちあがり、後ろを向いた。どこかに逃げてしまいたい、でも、そばにいる少年にすべて話してしまいたい。両方の思いが、智の頭の中で交錯していた。少年も、立ちあがった。


「ごめんなさい、お兄ちゃん。僕って、変だよね、きっと。だって、お兄ちゃんって、男の人じゃない。そんなの、きっとおかしいと思うでしょ?もう、お兄ちゃん、僕のこと嫌いになっちゃったでしょ?」


「智君、こっちを向いて」


 少年の声につられて、智は振り向いた。少年は、さっきと同じ表情で、笑っていた。


「お兄ちゃん?」


「智君…もっとこっちへおいで」


 少年は、智の肩をつかんで自分の方へと引き寄せ、そっと智の身体を抱きしめた。少年の胸に耳を当てた智は、ほんの少しだけ少年の鼓動が速くなってきているように感じた。


「お兄ちゃん…僕のこと嫌いじゃない?」


「さっき言っただろ?僕は、智君のこと好きだって。そんなの、ちっとも変じゃないよ。だって、ほら…」


 少年の手が、智の手首をつかみ、智の手を自分の身体の中心に触れさせた。


「きゃっ!」


 自分のものとは、大きさも、熱さも、はるかに違っている少年のものに驚き、智は思わず悲鳴を上げて、身体を硬直させた。


「僕だって、熱くなってる…智君のこと、好きだから…これは、違う意味での、「好き」ってこと…」


「お兄ちゃん?」


 智は、硬直させた身体を震わせながら少年を呼んだ。


「大丈夫、ちっとも変じゃないよ。今から、冷ましてあげる…智君の、からだ…」


 屈みこんだ少年の顔が、智の目の前で止まった。少年の瞳が、智の視線を捕らえた。智の心が、少年の瞳の中に吸い込まれて行く。頭の中が痺れて行く。しかし、今度は今までとは違う心地よさが、智を支配していた。智は、そっと目を閉じた。


「お兄ちゃん、僕のこと、全部見てね。僕のことだけ、見てね。僕も、お兄ちゃんのこと、全部知りたい…」


「智君…少しだけ、黙って…」


 少年の唇が、智の唇を塞いだ。智の唇に与えられる少年の唇のやわらかな感触。心地よい暖かさ。くすぐったくもなめらかな、舌の動き…。その瞬間、智の心と身体が、少年の腕の中で溶けて行った。すべてを委ねられた少年の腕の中で、智は今までに感じたことのない安らぎを感じていた。このまま、時を止めてしまいたい衝動に駆られた。


「智君…」


 少年が、智の名を呼んだ。それだけで智には、自分が次に何をするべきかを理解していた。智は、ゆっくりと身にまとっていた制服を脱いで、少年の前に生まれたままの姿をさらけ出した。それは、少年も、同じだった。清らかな色の肌をさらけ出した少年の胸に、智はそっと手を触れてみた。そのまま下に向かって線を引くように指を滑らせ、身体ごとすべてを少年の胸に預けると、少年の両腕が智の身体をそっと包みこんだ。二人は、一瞬だけくちづけを交わして、そのままソファの上へと倒れこんだ。


 二つの身体が、ソファの上で、ゆっくりと重なり合った。智は、自分の心も身体も、すべてを少年に委ねていた。それは、智にとって初めて覚える少年時代の厳かな儀式なのかもしれない。


(人を好きになるって、こういうことなのかな…そうなのかな…)


 ふと、智の頭の中に疑問が浮かんだ。しかし、それもいつしか少年の身体のやわらかな動きに、すべて消されていき、頭の中が真っ白になっていくことしか、感じられなくなっていた…。



(了)

 


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