読み切り短編

「息子」

Copyright: CASTER, 1999 - 2006





「おかえりなさい!」


 玄関のドアを開けると、奥の方から元気のいい声が聞こえてきた。


「あ、あぁ。ただいま。お前、今日塾はどうしたんだ。てっきり塾に行ってるものだと思って、
晩飯の準備、何もしてないぞ。」


 わずかに六畳二間しかない賃貸アパートの一室、それでも今の私にとっては立派な「我が家」だが、
私は、玄関に近いリビングと食堂、そして私の寝室をもかねる和室の中に上がり、ネクタイをゆるめながら、
小さな卓袱台で頬杖をつきながら、テレビ漫画を見ている智に尋ねた。


「やだなぁ、お父さん。今日は日曜日だよ。お父さんこそ、日曜日なのに会社に行くのなんて、大変だね」


「そうか、そうだった」


 ブラウン管の方を見ていた顔を私に向けて、智はあきれたような声を出した。その声に、私は、
今日が日曜日だということを思い出した。


「もう、お父さん、すごく忙しいのはわかるけど、日曜日くらいは休めないの?そんなんじゃ、
体をこわしちゃうよ?」


 見ていたテレビがそれほど面白くなかったのか、智はあっさりと立ちあがってスイッチを切ると、
台所から缶ビールとグラスを持って来て、卓袱台の上に置いた。


「あぁ」


 ジャージの上下に着替えて卓袱台の前に座った私は、相づちを返しただけで、缶を開け、
グラスの中にビールを注いだ。心なしか、私の缶を持つ手が震えているように見えた。


「ねぇ、お父さん。今度の水曜日、授業参観があるんだけど、お父さんは、来られないよね」


 グラスに注がれたビールを飲む私をじっと見つめて、智は最初から答えがわかっているといった顔で
私に尋ねた。


「授業参観?あぁ、この間お前が持ってきたプリントに、そんなことが書いてあったな」


「うん。お父さん、普通の日には会社休めないでしょ?だって、こんな日曜日にまでお仕事しなきゃ
いけないんだもん。だから、いいよ。別に無理して来てもらわなくても。僕、全然気にしてないから」


「普通の日?あぁ、水曜日じゃ、休めないな。悪いな」


「うん、いいんだよ。お父さん。でも、お父さんが会社で頑張ってるくらいに、僕も、学校で頑張ってるんだから、
それを見てもらえないのが、ちょっと残念だけど。エヘヘ」


 精一杯、笑っているように見えても、私には、智の目の奥にどこか悲しげなものが宿っているように見えた。


「なあ、智。お前、新しい母さんは、欲しくないか」


 私は、口にくわえた煙草に火をつけ、いきなり切り出した。
目を思い切り見開いて私を見る智の顔が、吐き出す煙の向こうに、霞んで見えた。


 私の妻は、まだ智が小学校に上がって間もない頃、不治の病でこの世を去った。それ以来、
私は誰に頼ることもなく、智…この私と、妻の間にできたたった一人の息子を育ててきた。しかし、
片親しか持たないこの子が、十歳という微妙な年頃になっても、さして道を外れることもなく、
素直な子供に育ったことは、仕事に負われ、満足に遊び相手もしてやれない私にとって、
奇跡のように思えた。それはおそらく、私一人の力ではなく、学校の先生や、友人たちが
智を今の存在へと導いてくれたからなのかもしれない。


「新しい、お母さん?」


「そうだ。新しい母さんだ。いやか?」


 世間から見ればまだ若輩に見られるかもしれない私にとって、妻を亡くしてから数年、
当然新しい愛情が芽生えることは、不自然なことではないだろう。しかし、常に私は、この智が、
まったく血の繋がらない女性を新たな母として接してくれるのかどうか、畏れにも似た感情を持っていたし、
それをぬぐい去ることができなかった。


「どうして?僕には、お母さんは一人しかいないよ?」


「……」


 智は、壁際に備えられた仏壇に顔を向けた。仏壇には、位牌や供物と共に、亡き妻の遺影が、
微笑みながら私たちの方を見ていた。


「お父さん。僕、今でも覚えてるよ。お母さんが天国に行っちゃったとき、僕、泣かなかったでしょ。
だって、お母さんは、天国に行っちゃっても、お母さんなんだもん。だから、毎日僕はあいさつしてるんだ、
お母さんに。お父さんだって、毎朝僕がお母さんにあいさつしてるの見てるでしょ。お母さんはね、
声は聞こえないけど、ちゃんと僕の言ったことに答えてくれるんだよ。それに、お父さんの言うことは
良く聞くのよって、いつも言ってるんだよ。だから、僕はお父さんの言うことだけは、ちゃんと守ってるんだ。
だから、お父さんはどう思ってるのか知らないけど、僕は、新しいお母さんなんて、全然いらないよ。だって、
もしお父さんが別の女の人と結婚したら、その人はお父さんの奥さんだけど、僕のお母さんじゃないもん。
僕には、お父さんも、お母さんも、ひとりだよ」


 仏壇に目を向けたまま話し続ける智の言葉に、私は頭を打ち付けられる様な衝撃を受けた。私の脳裏には、
三年前に、病院の霊安室で永遠の眠りに就いた妻を、身じろぎもせず、涙も見せずに見つめている智の姿が
鮮明に思い出された。あの時、智の心の中には、優しい母の姿が永遠に焼き付けられたのだろうか。私は、
遺影に写る女性が、私の妻であったと同時に、智にとってかけがえのないたったひとりの母でもあったということを、
ようやく今になって気づいた。


「悪かったな。智。変なことを聞いてしまったな」


 私は、今になってこんな質問したことを後悔した。私が新しい女性を妻に迎えることは、今、私たちの
目の前で微笑む女性に対して、私の愛情が薄れてしまったということも言えるはずだった。しかし、智は、
そんなことにも気がつかないのか、気づかないフリをしているだけなのか、黙って仏壇の前に座り、
両手を合わせた。その行動が、私には、ある意味では智の精一杯の皮肉のようにも見えた。


「ねえ、お父さん。僕、本当は悲しかったんだ。お母さんが死んじゃったの、すごく、悲しかったんだ。でも、
僕、もう小学校に通ってたし、あんまり泣いちゃいけないって、その時思ってたのかもね。だって、僕、
男の子だし、あんまり人のいる前で泣くのって、恥ずかしかったのかな。それに、今でも…」


 智は、仏壇の前に正座したまま体をこちらに向けた。智は、泣いていた。人前はおろか、たった一人の
肉親である私の前でも涙などというものを見せたことがなかった智が、初めて、私の前で涙をこぼした。
その涙は、美しいと言えるほどに透明で、全く一分の汚れもなかった。その涙の中に、私は、たとえ表面では
明るく振る舞っているように見えても、心の中では、未だ母の死を乗り越えられずに苦悩する、
ひとりの少年の姿を見たような気がした。


「智、父さん、謝らなくちゃいけないな、母さんに…」


 私は、膝の上に手をついてうつむいている智の横に座って、仏壇に向かって目を閉じ、両手を合わせた。
それは、微妙な心の動きを持つ十歳の息子に対する演技ではなかった。ただ、私のそばで、私のことを
父と呼ぶ智に、そして、この世になくとも、智をここまで育ててくれた妻に感謝の意を表したかった。


「お父さん、今でも、お母さんのこと好き?」


 突然の問いかけに、私は、一瞬ビクッと体を震わせて、閉じていた目を開けて智を見た。


「あ、あぁ。もちろん、母さんが世界で一番さ」


「そうでしょ?だから、新しいお母さんなんか、いらないんだよ」


 智は、手の甲で目に溜まった涙をふき取ると、目を細めて笑った。その天使のような微笑みに、私は、
今はまだ個人としての私のことを考える前に、親として、智の人生を見守ってやることが先決なのだと悟った。


「なぁ、智、腹減ったろう。今夜は、どこか外で食事するか」


「え、ホントに?じゃ、表通りのラーメン屋さんがいいな!」


 智は、ピョンと立ちあがり、もう玄関に向かって小走りに駆けだした。


「なんだ、ラーメンでいいのか」


「うん!でもね、今はすっごくおなかがすいてるから、ギョーザも頼んでいい?」


 勢いよく外に飛び出す智を追いかけるように、私もあわてて立ちあがり、サンダルを突っかけて外へ出た。


「お父さん、見て見て!すごいお星様だよ!」


「おぉ、すごいな」


 智の声につられて空を見上げると、都会にしては珍しく、今にも振ってきそうなほどに満天の星が輝いていた。


「ねぇ、お父さん。どのお星様が、お母さんなのかなあ」


「ううん、きっと、一番輝いてる星が、お母さんだろう」


「じゃ、あの一番遠くにある星だね!」


 智は、遠くの空を指さし、ずっと星を見上げたまま狭い路地を歩いていた。私は、空に輝く星たちよりも
更に明るく輝く智の目を見ているうち、今のままが十分幸せなのかもしれないと、思った。私は、そっと智の
肩を抱いて、体を引き寄せた。息子の肩を抱くなどと言うことは、数年ぶりだった。知らないうちに、
智の体つきは、大人のそれに近くなっているように思えた。


「ん…、お父さんの腕って、あったかいね。お父さんの匂い、僕、大好きだよ」


 智は、頭を私の胸に寄せて、小さな声でつぶやいた。その一言で、私は、この子を幸せな将来へと導くことが、
子を持つ親としての私の、一番大事な仕事であるのだろうと確信した。それは、日本社会の小さな歯車の
ひとつとしてしか動けない私の、大人の人間としての誇りであるのだろう。そして、それが、何よりも亡き妻への
最良の供養でもあるのだろうとも思った。

 私はなによりも、このわずか十歳の、まだ何の汚れも知らない少年を愛し、育てることが、私の一番の
使命であることを思い、肩を抱く手に、一層の力がこもっていくことを感じた。


 思わずこぼれ落ちそうになる涙をせき止めるようにふと空を見上げると、
智が、お母さんだと言っていた遠くの星が、一瞬、私たちを照らすように更に明るくその輝きを増したように、見えた。

 

(了)


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